今の時代を生きる私たちは、「諦め」という言葉をネガティブなものだと教えられてきました。
確かに諦めは、ある一面だけ見れば決して良いものとは言えません。自分の夢や目標に向かって諦めずに邁進することは、ある種の美しさとも言えるものがあり、大きなことを成し遂げるために「諦めない」ことは絶対に必要だからです。
しかし一方で、「諦めるのは悪いことだ」という価値観を鵜呑みにし、1つの物事に執着するあまり一歩も前に進めない状態は、果たして正しいと言えるでしょうか?人生に対する全てに食らいつき、努力し、心が悲鳴をあげていてもなお「諦めない」ことは、それでも美しいのでしょうか?
この記事では、うつ病歴10年弱の私の体験談をもとに、
というテーマを扱っています。うつ病の治療が上手くいかない方、あるいは人生に疲れたという方、色々な人にとって有意義な記事となるように誠心誠意執筆してみたので、無理のない範囲で読んでいただければと思います。
この記事の概要
私のうつ病からの脱却は「諦め」から始まった
冒頭でもお伝えしたように、私はうつ病を患っている患者です。一番辛かった時には、文字通り「生きることしかできなかった」と言えるくらい非常に辛い思いをしました。ですが、そんなどん底の状態から、今では毎日少しずつ仕事をし、このような記事を書けるくらいにはなれたのですから、人生って何が起きるかわからないですよね。
さて、私がどん底の状態からここまでどうにか回復することができた要因として、冒頭でも伝えたように「諦め」が大きかったと思います。
うつ病の苦しみの全ては「執着」である
ではどうして「諦め」がうつ病からの脱却の大きな要因になったのかですが、これを語る上で外せないのが「執着」です。皆さんも知っての通り、執着とは特定の物事を「諦めない」ことを意味する言葉であり、この記事では諦めの対義語的な使い方をしていきます。
私は今まで様々なことに対して執着してきましたが、その最たるものが
ということへの執着でした。私は昔から負けず嫌いで、何かにつけて他人と競争したがる性質を持っています。それゆえ、今までの人生では常に
亜鈴
といったように、誰か・何かと競うように人生を歩んできたように感じます。そんな私にとって、「普通の人生を生きれない」ことは何にも勝る屈辱で、とにかく最低でも普通の枠に収まってなければいけない。普通からはみ出てはいけない。という考えで頭がいっぱいだったんです。
しかし、結果的に私は「普通」にはなれませんでした。「大学院まで進学して良い企業に就職する」という絵に描いたような「普通の人生」に拘泥してきた学生時代に、うつ病の重症化により大学院を休学・退学せざるを得なかったからです。
現実を受け入れられない苦しさ
うつ病の重症化により休学した際は、非常に苦しかったことを今でも記憶しています。頭の中に「死にたい」という記号が勝手に出てくる希死念慮に初めて悩まされ、「普通の人生」なんかにこだわっている場合じゃなかったから。
そして、逃げるように大学を後にし実家に帰り、そこから私の療養生活が始まります。でも、当時頭に常にあったのは、
- 大学に戻って「普通の人生」をまた始めないと
- このまま俺はどうなっちゃうんだろう
- 一生仕事も何もできず終わっていくんだ
こんなことばかりで、「普通の人生」という目標と、現実のどうしようもなくだらしない自分とのギャップにずっと苦しみました。
亜鈴
今思えば傲慢とも受け取れるこんなことを考え続け、療養生活にも関わらず心をすり減らす日々が半年近く続いたのです。理想から外れている自分をとにかく罵り、罵倒し、無価値だと責め続ける毎日は、ある意味で現実から逃げるためにも必要なことだったのかもしれません。
現実の自分を罵倒することで忘れ去り、理想の自分を頭の中で美化する。この作業により、どうにか「理想の自分」に執着した状態をキープしていた気がしています。
諦めることで人生は再び動き出す
ですが、こんな毎日を送っていては、ハッキリ言って心がもちません。来る日も来る日も自分を責め続けた私は、ふとこんなことを思うようになりました。
亜鈴
うつ病を患っている方ならわかるかもしれませんが、私はとにかく布団から出たくなかったです。布団の中で理想の自分を希求し、現実の自分を罵倒する。これをひたすら続けていましたが、これも現実から目をそらすために行なっていたのかもしれないですね。
しかし、上記のようなことを心の中で感じるようになってから、徐々に布団から出るようになりました。大学の同級生が就活をして将来への新たな一歩を歩みだしている時に、家でのんびりしているしかない自分。親や周りの人間は仕事をしているのに、家でゲームをしているしかない自分。
布団から出たことで、徐々にこういった「現実」に直面するようになり、最初は本当にキツかったです。でも、
亜鈴
と心の中で呟き、なんとかそのままの自分で生きることだけを意識するようにしました。頭の中にある理想の自分で生きるのではなく、「今の自分」で生きる。
寝て、起きて、食べて、また寝る。これしかできないどうしようもない自分でも、「これが自分だから」というスタンスで生きなければ、新しい人生が始まらないと思ったのです。
「諦め」は悪いことなんかじゃない
もちろん最初はそう簡単に割り切れなかったです。
亜鈴
こんな風な感情で心が支配され、どうしようもなく辛くなったことは数え切れないほどありました。うつ病にさえかからなければ、こんなことにはならなかった。ホントその通りです。
でも一方で、「うつ病になった自分」が今のたった1人の自分なのもまた事実なのです。こう思えるようになった時、私は「自分の人生を諦めたのだな」と思いました。
今までは「就職して結婚して・・」という目標?というか、固定観念があったけれど、それを全て諦め、とりあえず今を生きよう。食って寝るだけの人間で、お金だって一銭も稼げないダメ人間だけど、とりあえず今を生きてみよう。
とても「前向き」とは言えないけど、諦めたことで、多少は「生きることに能動的」になれた気がしましたね。大学にいた当時は、論文読んだり、セミナーの準備したり、後輩の面倒見たり、就活の勉強したり・・と、一見すると療養生活より明らかに活発に生きているような気がしますが、今振り返れば当時は何も考えずロボットとして生存していただけってイメージが強い。
一方で、全てを諦めて「何もできないダメな自分で生きる」ことを決めてからの方が、「生きてる」って感覚があったのが不思議でした。
私はこの経験から、「諦める」ということは決して悪いことなんかじゃなく、むしろ人生を主体的に・能動的に生きるために大切なことだって思えた気がします。うつ病にかかる人間は総じて真面目な性格を持っていますから、どうしても人生の様々なことに対して執着し、諦め切れない部分がありますが、一度諦めがつくと
亜鈴
と思えて、改めて「生きる」ということに対してフレッシュな視点で向き合える。だから、うつ病になった自分を受け入れられず、前の元気だった自分に執着してしまったり、うつ病になって休学・休職といった形で人生が止まってしまい、「こんなはずじゃなかった」と以前の人生に対して執着してしまったり・・といった様々な執着から、一歩抜け出して「今までこだわってきたことを諦めてみて欲しい」というのが私の願いです。
等身大の自分で生きていこう!
そして、執着から徐々に抜け出すと、徐々に「本当の自分」が見えてきます。私は「本当の自分」を目にした時、どうしようもなくダメな自分、という感想を率直に抱きました。
亜鈴
頭に浮かんできたことはこんなものばかりで、当時は「なんだこの絵に描いたようなダメ人間は・・」と自分で呆れてしまったほどです。でも今は違う。今でも私は、上記のように「楽して生きたい」と思っていますが、
亜鈴
って考えを持てるようになりました。これを進化ととるか、退化ととるかは人それぞれかもしれませんが、もう「進化」とか「退化」とか「前」とか「後」とかにこだわらなくなったんですよね。
成長なんてしなくていい。今の自分でいいじゃない。と常に考える。目標なんてなくても人間は生きていけるんだから。かっこ良く言えば「等身大の自分で生きていく」ってイメージでしょうか?これを大事にしています。こう思えると、人生すごく楽になります。
人生は執着だらけですが、そんな執着を捨てることで、苦しみから解放される。そして、等身大の自分で新たな人生を生きる。これができれば、既にうつ病からの脱却はスタートしていると言っても過言ではありません。その過程、要するに「諦める過程」がとても辛くて、困難を伴うものなのですが、私はうつ病からの脱却にはこの道しかないと思っています。
そこで次の章では、「執着」を諦めて新たな人生を歩むために重要なことにフォーカスして、話を進めていきますね!
なお、この記事のテーマである「諦め」が重要であることを理解できたキッカケの本がこちらになるので、もしよかったら皆さんも読んでみてください!ちょっと難しい本ですが、この記事では伝えきれなかった「諦め」の大切さが、身に染みて理解できると思います!
「執着」から抜け出して新たな人生を始めるために重要なこと
私たちうつ病を患っている人間は、頭の中の至る所に執着と呼べるものが存在していると思います。
- 早く病気を治して仕事をしなきゃ
- この先どうなっちゃうんだろう。色々考えとかないとダメだ
- この病気本当に治るのかな・・、治さないと人生終わりだよ・・
代表的なものをあげれば、上記のような感じかなーと。これらは確かに真っ当な不安や悩みかもしれませんが、別の見方をすれば「執着」以外の何物でもないんですよね。
「〜しなければ」という義務感で生きるのを止める
自分の人生を一度振り返ってみると、私の人生は「〜しなければ」という執着だらけだったなーと今では感じます。常に誰かに急かされるようなイメージで、周りの目がとても気になる。ちょっとしたことで不安になり、結局
亜鈴
といった感じのことで、頭の中がいっぱいでした。そしてそれらを消化することで、1日が終わる。そしてまた、「〜しなければ」の明日が始まる。うつ病を患っている方々の、辛かった思い出の中も、きっと似たようなイメージなのではないでしょうか?
仕事でやらなきゃいけないことがたくさんあって、毎日余裕がない日々。その結果、頭の中が「〜しなければ」で埋まってしまい、パンクしてしまった・・。このようなパターンが一番多いのではないかと思います。
真面目なのはいいことだけど・・
1つ勘違いしてはいけないのが、「〜しなければ」という思考を持つことができる私たちは、決して劣った人間なんかではないということです。むしろこのような真面目な性格を持っていることに、感謝すべきとさえ言えます。
だって、世の中にはこれと正反対な人だってたくさんいるから。私たちが「〜しなければ」と思っている横で、テキトーに仕事をしている人だっている訳で、世の中の人が全員「テキトー思考」だったら、日本という国は持ちません。だからこそ、私たちのような真面目な人間が、自分のことを責めることは本来ならする必要はないんですね。
でも一方で、私たちのような真面目な人間は、基本的に「〜しなければ」という思考をベースにして動くため、何事に対しても
- 完璧さ
- 清廉潔白さ
こういったことを一番に求めがちです。よって、1つ1つの物事を遂行するスピード感や、フットワークの軽さについては苦手な部分。一方、「テキトー思考」の人は、完璧さや清廉潔白さとは全く異なる、
という思考がベースにあるため、1つの物事をやり終えるスピードは私たちの比ではなく、ある意味では仕事が早いとも言えます。よって、真面目・テキトーは、どちらが優れている・どちらが劣っているという二元論に落ち着く話ではなく、むしろ「世の中にとって両方必要」だということが真理だと思ってます。
ゆえに、私たちは何かにつけて執着したがる「真面目な性格」を、「テキトーな性格」に矯正などする必要はありません。執着したっていいし、仕事が遅くたっていい。それで構わないのです。うつ病になると、
って感じのプレッシャーをどこからも受けますが、こんなもの真に受けなくていいです。真面目でいい、いや、むしろ「真面目だからこそいい」んですからね。だから、何かに執着してしまう性格はそのままでオッケー!等身大のあなたで生きていきましょうよ。
じゃあ一体何を「ちょっとだけ変えればいいのか」というと、「執着から生まれる苦しみ」を減らせばいいんです。真面目な性格はいいことだけど・・、ちょっとだけ苦しみに着目してみる。
今までの私や皆さんは、真面目だからこそ生まれる苦しみで、自分をいじめすぎちゃったんですよ。だから、一度自分が自分にどれほどの苦痛を与えるかを、まずは理解してみる。このことから始めてみましょう!
そして、何が自分を苦しめているかを理解すると、自ずと1つの答えに帰着します。それは、「〜しなければ」という義務感です。私たちは真面目だからこそ、義務感で生きるきらいがありますが、これは自由に生きていきたい人間本来あるべき姿から逸脱しているので、そりゃ苦しいに決まっています。
なので、真面目な性格はそのままに、「義務感で生きる」ことを少しずつ減らしてみてはいかがでしょうか?
自分の心の声に目を向けてみよう
では、義務感で生きることを減らすにはどうすればいいかですが、これはある意味では超簡単で、ある意味では超難しいことになっています。
その気になる内容は、
ということ。一見すると簡単なように思えますが、私たちのような真面目人間には、ちょっと難しいことなんですよね、これって。
例えばですが、うつ病になると「生活習慣を整えることが大事」だと一般的には言われていることから、ほとんどの方は
亜鈴
という「義務感」に基づいて生きていると思います。でも、もし本心の自分が
亜鈴
と思っていたとしたら、どうでしょうか?この時点で従うべきは、普通は前者の「義務感」だと思いますし、実際私もそうでした。
でも、我々人間はロボットではないのですから、マニュアルに従って生きる必要なんて全くないこともまた事実。でも私たちは、そんなマニュアルに従って今まで生きてきた訳ですが、その結果が今のうつ病な訳です。
であるならば、こんな時くらいは「自分の心の声」に従ってみてもいいんじゃないですか?例えば、
亜鈴
と思ったら、そうしてみるのも「個人的には」全然アリだと思います。ほとんどの医者はダメっていうと思いますけど、心の声に従って初めて「等身大の自分」が見えてくるわけですから、患者目線で言うならば心の声にジャンジャン従うべきです。
もちろん、常識的に考えてNGなことはダメですよ?自傷行為とか、度を超えた暴飲暴食とか、これらは心の声のレベルの話ではないですからね。
「良い・悪い」基準はもう捨てちゃっていい
以上のように、心の声に従うことで、苦しみの生じない「等身大の自分」というものが見えてきますから、この際「良い・悪い」という基準を捨ててしまって良いと思います。
私ら真面目な人間は、どうしても「良い・悪い」の二元論に物事を着地させたがる思考を持っているのですが、ハッキリ言ってこれは苦しみしか生まないからです。
さっきの例で言うならば、
- 規則正しい生活:良い
- ダラダラした生活:悪い
こんな感じですが、この良い・悪いがあるからこそ、早く起きれなかった時に自分を責めてしまいますし、逆に規則正しい生活ができた時は思わず「ハイ」になって喜びまくっちゃうわけです。
確かに、喜ぶのは悪いことではないですが、人間はロボットではないので、必ず失敗する時がきます。その時に、
という後悔が100%生まれますから、そういう意味でいえば良い・悪いは持つ意味はあんまりないと思います。それよりも、良い・悪いに執着せずに全てを受け入れられる、人間的な器の大きさというか、そういった方向性を目指すのが理想かなと。
執着から離れるには「マインドフルネス」がおすすめ
さて、ここまでのお話で、私たちが執着から一歩離れるためには、
- 義務感で生きるのをやめる
- 自分の心の声に目を向けてみる
以上2点が重要であることをお話ししてきました。「〜しなければ」と、何かに駆り立てられるような思いで生きるのをストップし、自分が本当に望むことについて考えてみる。これこそが、執着からの離れ方、もっと言えばうつ病からの脱却に繋がるということですね。
しかしながら、私も同じだったから理解できるのですが、自分がどんな義務感を抱いていて、どんなことを本当に望んでいるのか、何を諦めて生きていけば良いのか、について全然理解できないという方もいらっしゃると思います。
今までの行き方で「本当の自分を見失ってしまった人達」
ここでひとつ、私たちがどうしてうつ病になってしまったのかをもう一度復習すると、自分の心の声をガンガン無視して、「〜しなければ」という義務感で生きてきたからに他なりませんよね?
本当はベッドで寝ていたいけど、仕事しないと、家事をしないと。本当はこんな人と関わりたくないけど、上手に関わらないと・・、このように自分の心の声を無視して「〜しなければ」という義務感に執着し続けた結果、体から「もう無理や」とお声がかかった状態、これこそがうつ病の本質(であると私は考えています)。
そしてさらに厄介なことに、今までこのような生き方をしてきた私たちは、「本当の自分がわからない」という状態に陥っている可能性が高いんですよね(逆に言えば、本当の自分が理解できているなら、うつ病からの脱却は迅速に行えると言える)。
例えば、皆さんが皆さん自身に「今何がしたい?」と尋ねたとしましょう。これ、私がうつ病で一番苦しんでいた時なら、
亜鈴
という模範回答チックなことを答えていたと思いますが、今の私なら、
亜鈴
こんな感じに素直に答えられるんですよね。なんで大学院とかいうあんなストレスフルなところに戻りたいと思わなければいけないのか、ってのが本音ですが、当時は自分の心の声よりも「〜しなければ」という義務感の方を優先していたって感じです。
じゃあ皆さん自身はどうかなってことなんですね。本当の意味で「自分がしたいこと」が理解できているのか、もう一度真剣に考えてみるべきだと思っています。
マインドフルネスで自分の見つめ方を学ぼう
ちょっとだけ考えてみて、どうでしょうか?本当の意味で自分が心から望むこと、理解できていますか?多分ね、ちょっとだけ今の皆さんには難しいのではないかなと思ってます。これはつまり、「自分の見つめ方」の問題で、これまで自分より周りのことに気を配ってきた、真面目で頑張り屋さんな皆さんにとって、自分を見つめることは苦手分野だと思うんです。
というわけでここからが本題になってきます。自分の見つめ方には色々な方法がありますが、個人的におすすめなのがマインドフルネスというやり方・・というよりも「生き方」ですね。
詳しい定義については端折りますが、マインドフルネスについて簡単に解説するとこんな感じ(皆さんも聞いたことくらいはあるかも?)。
- 仏教や禅など東洋的な思想を源流に持つ
- 宗教要素は全くなく、「脳のストレッチ」のようなもの
- やり方はとても簡単で危惧すべき副作用もない
ちょっとだけ解説していくと、そもそもマインドフルネスとは西洋医学とは対照的な東洋医学(仏教や禅などの考え方)を源流に持ちます。西洋医学と東洋医学の違いについては以下の通り。
- 西洋医学
- 体の不調を悪とみなし、改善することを目的とする
- 東洋医学
- 体の不調も自分の一部とみなし、調和を取ることを目的とする
これを見てみれば分かる通り、私たちが慣れ親しんでいる医学とは「西洋医学」の方ですよね?体の不調や病気を悪いものと捉えて、お医者さんに直してもらう。しかし東洋医学はちょっと違っていて、基本的に「受容」のスタンスを取ります。ですから、マインドフルネスの基本的な考え方は「全部あるがまま受け入れる」という感じです。
そして皆さんが怖いと思うのが宗教的な要素があるのかどうかについてですが、これには自信を持って「ノー」であると言えます。確かに仏教や禅などの宗教の色が入ったものが源流にあるのは間違い無いですが、あくまでマインドフルネスは「東洋宗教の良いところを科学的に取り入れちゃおうよ」ってスタンスなんですね。
なので、私たちが体を鍛えるために筋トレをするのと同じで、うつ病を引き起こすとされる脳という器官をトレーニングする「脳の筋トレ・ストレッチ」のようなものだと考えてくれればOKです。
そして最後のやり方についてですが、これもめっちゃ簡単です。というか、「何もしないこと」がマインドフルネスの本質なので、やり方もクソもありません。「は?何言ってんだこいつ」と思われるかもしれませんが、かなり大真面目に話しています。
どういうことなのかを超簡単に話していくと、
- 私たちは常に「何かしなければ」という義務感で生きている
- でも何もせずに「ただ生きる」だけでも全然良いのでは?
- じゃあ何もせずボーッとしてようぜ
まあ大体こんな感じです(めちゃめちゃ簡単に話してます)。つまりマインドフルネスとはボーッとすること・・、というと語弊がありますが、もうちょっと専門的に言うと「何もせず座って呼吸だけをする」ことがマインドフルネスで主にやることなんですね(そしてこれこそが瞑想です)。
「座って呼吸だけしてれば楽になるなんてあり得ない」と思うかもしれませんが、それはその通りです。マインドフルネスとは楽になるために行うのではなく、「今の自分をよく知って、今の自分で生きる」ために行うものだから。要は、苦しみを減らすのではなく、苦しみを知って、理解して、苦しみを抱えながら生きる術を学ぶこと、これこそがマインドフルネスの本質なんですね。
なので、「これだけすればうつが治る!」みたいなそんなものではなくて、もっと本質的な「生きる」という部分にまで踏み込むもの、それがマインドフルネスであることは覚えておいてください。ちなみに筆者は、マインドフルネスを開始して3ヶ月くらいで、明らかに以前よりも活発になることができましたよ。
自分の気持ちが整理されて、自分のことを理解できる。だからこそ苦しみが分かる。そして苦しみを抱えながら生きられる。最終的には、以前よりも無理なく等身大の自分で生きられる。まあこんな感じですね。
マインドフルネスのやり方や効果、おすすめの書籍についてフォーカスした記事がこちらになるので、もっと知りたい!という方は参考にしてみてください。

まとめ
この記事では、うつ病からの脱却と諦めについて語ってきましたが、いかがでしたでしょうか?
最終的に言いたいことがまとまらなかった部分がありますが、「諦め」から始まることはたくさんあるので、諦めは決して悪いことではないということを覚えておいていただければ嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
私は5年間悩み苦しみましたが、今だに自分の考えを変える事で脱却できたとは思って居ません。ある時、先生に何か「良い薬はないでしょうか」とお願いして「新薬を」勧められ、体に良い変化が現れた頃、ある薬局の紹介でカウセリング(認知行動療)受ける事により半年間で復帰できました。私は色んなネットワークをはり、諦めず少しづつ努力していた事が良くなれた原因かと思って居ます。鬱病からの脱却を諦め、納得いかいまま、毎日を何となく過ごしていては、抜け出すチャンスは巡ってこないと思う。今考えると5年間の鬱病体験は人生修行の最大のイベントであった。鬱病的性格の御蔭で事業、私生活で沢山の成功も射止める事ができた事をおもえばこの性格に生まれた事に感謝である。人生波乱万丈も考え方次第では悪くない、苦しんだ分、幸せを噛み締める
くぼとちおさん、コメントありがとうございます。
私が当記事で言いたかったのは、うつ病を消そう、無くそう、治そうと躍起になるあまり、人生がずっと停滞している方に向けて「治すのを一回諦めてうつを抱えながら生きてみてはどうだろう?」ということです。
もちろん、コメ主さんのように努力して治れば良いでしょう。でも、不運なことに努力を重ねても改善しない症例も報告されているのが事実ですし、そもそも努力できるほどの元気がない方がいるのも事実なのです。
故に、私はうつ病を諦めることが、結果的に治療の一助になるのではないか、言い換えればうつ病を抱えながら生きていく決心をすることで、人生が動き出し前向きに生きられるのではないか、と考えます。
努力でうつ病が治ればうつ病は病気じゃないのではないでしょうか?まあ、人それぞれだと思うので否定も肯定もしませんよ。ただ、その価値観を苦しんでるうつ病の方々に振りかざすのだけはやめて欲しいです。
自己中の私には貴方が、本当に心優しい方だと思いました。貴方のおっしゃっている事は鬱病で悩んで要る時を振り返ってみるとやはり当てはまる事がありました。人生を諦めるのでなく、焦ってもどうにもならない鬱病を受け入れる事により自分を客観的に観る事ができる時期が来る、そういう事でしょうか。「世界で一番不幸な自分」が「皆幸せそうに生きているが、それぞれ悩みを乗り越えて生きている」「なんでこんな事に悩んでいたのか解らなくさえなる」35年前に35歳の時、解放病棟に1年間入院した経験がありますが鬱病等で入院されている方の中に色々な事情があると思いますが、私から見れば治る事を諦め楽しそうに過ごして10~30年以上も居られる方も居りました。解放病棟の為、何の束縛もなく恋愛もなにもでき、考え方ではこんな楽園はないとも思いました。ここにいたら抜け出せないと実感しました。私は2度鬱病になりこんな事を学びました。「人と比べない」「自分の価値観で生きる」「考え方で幸せにも不幸ににもなる」「幸せは自分の心が決める」「過去の自分を自慢しない」「当たり前と思って居た事が当たり前ではない」「無理な事を頼まれたら断る勇気を持つ」テレビ等で障害者の方で今の自分を受け入れ色んな事にチャレンジして頑張っている方を目にすると頭が下がる。
私はまだ27です。35年前に35歳だった大先輩に優しいなどと言われるのは、大変もったいないお言葉ですよ。
別に私は優しいわけではなく、単純に効率の問題です。うつ病の人間に、努力は似合わない。というより、非効率なんです。うつ病はもう動けなくなるまで自分を追い込んだ「証」です。そんな人間が、そこから脱却するために再び努力をしなければいけない、これっておかしくないですか?連投に次ぐ連投で疲れている投手に、投げ込みをして治療をさせますか?しないでしょ、そんなこと。
実は私も、コメ主さんと同じように努力でうつ病を克服しようとした人間です。18で発症し、食事療法からコメ主さんが効果を感じた認知行動療法ももちろんやりました。そして色々なことを調べ、各薬の作用メカニズムまで覚えました。今では薬名を言われれば、脳のどこに効いてどんな効果が得られるのか、ということを分子レベルで説明することができるほどです。
さて、ここまでやって、うつ病は果たして治ったのでしょうか?全然良くならないんですよ、これが。つまりこれがうつ病なんです。コメ主さんのように、正しい努力で改善する例もあれば、私のように何をしても改善しない例もある。そして、私のパターンに陥ったら、「諦めようや」ってことが言いたかった。
どうにかしよう、治療しようと頑張るよりも、何も考えず家で寝てた方が結果的に治療の効率は高くなる、そう思うからこそ「何もするな。諦めて家で寝とけ」と主張しているわけです。なので、
コメ主さんのこちらの文章は、私の考え方と非常に近いものがあります。今は疲れてるからとりあえず休め。そのうち全部受け入れられる時が来る。そしてそれが「うつからの脱却」だと。
ただね、1つ言っておきたいのは「うつ病からの脱却を諦める」ことと、「人生を諦める」ってことは同義じゃないんですよ。むしろ逆で、人生を諦めないためにうつ病からの脱却を諦めるんです。だって、毎日毎日うつ病のこと考えるの嫌じゃないですか。来る日もくる日も良くならなくて、それでも完治を夢見てる。こんな生活送っていて、いつまでたっても改善しなかったら、そりゃ誰でも人生辞めたくもなります。
こうならないために、まずはうつ病を「もうええわ」と諦めてみる。そんで、「まあええわ。うつ病抱えながらとりあえず生きてみるわ」と、このくらいの姿勢で生きてみる。これで救われる人がたくさんいるんじゃないでしょうか?
まあ個人的には、開放病棟で好き放題やるのはちょっと違和感を感じなくもなく「ここにいたら抜け出せない」と感じたコメ主さんは正しいと思いますが、それでも病棟で伸び伸びと彼ららしく生きられたのなら、それもまた1つの生き方なのかもしれませんね。それこそ「幸せは自分の心が決める」というやつです。
「人生半分諦めて生きる」買って読んでみようかと思って居ますが、貴方の様に理論的に物事を考える方でも難しいという本ですから恐らく私が読んで理解するのは難しいと思います。鬱病で悩んで要る時、鬱病を経験していない有名な先生の本とか、すぐにでも治癒すると言った本を何10冊と買いましたが、正直私の読解能力では、ましてや鬱病の真っ最中の中、全然自分の物にはできませんでした、題名をみて買ったので何ページか読んで今でも書籍入れの中に眠っています。私は今、72歳ですが機械工として働いていますが、今の若い方は、コンピューターを駆使した機械を使うのは得意ですが、自分で加工工程を模索し、自分で研削工具を研いでやることがとても苦手です。他のベテランの方でさえも難しい仕事が来ると前の夜は色々な加工方法、加工工具を考えると中々興奮して眠れません、実際チャレンジしてみると投げ出したい気持ちにもなりますが「けして諦めない」「挑戦」をモットーにしているので色んな失敗をしますが何とか希望の部品を作る事ができます。この材質は。この形状はできないと言う一般的な考えは最初から排除して加工に臨みますが案外簡単にできることもあります、例えば、10万円で受けた部品でも色々な研削工具等を試しているうちに工具代だけでも価格をオーバーする事も多々ありますが、色々失敗した事をノートにとり次に似た部品が来た時に活かします。何でも理論的に考えたり、他のベテランの方が無理だからと言うので諦める、それでは、前に進みません、、やってみなければ解らない事が沢山あります。この精神は中学時代余り数学が好きでなかった自分を大好きな自分に変えてくれた先生の御蔭です、一つの問題を1週間考えてある朝突然解けた快感今でも忘れません、先生は「答えよりも解く工程を重んじる」そんな方でした。「答えは一つでも解く工程は沢山ある」鬱病治療も一つの枠に捕らわれず、自分にあった方法を模索し昨日よりもどんな小さな事でも前に進んだら「自分を褒めてあげて」一つ々前に進めていけば何時かチャンスに巡り会える時が来るのではないでしょうか?余り難しく理論的にばかり考えず良いと思った事は焦らずやってみる、それが一番ではないでしょうか?特に鬱病はこうしたら治るという法則はないと思う、いつの間にか、ちっとしたきっかけで、治っているんですから、悩んで要る時色んな人生経験するのも悪くはありません、必ず治る病気だと信じて、過度の期待は持たずに、72歳の老人の言える事はこんな程度です。
亜鈴さま
こういう欄にコメントを残すのは初めてのことで緊張しています(笑)
ブログを興味深く拝見しました。
現在、大学院博士課程に在学中です。
本当にもがいて 苦しみ、頑張った方だからこそ
矢印が己へと反転し、真摯な自己省察へと向かっていったのだなと拝察します。
当方は色々なことを誤魔化し 粗末にしてきました。
諦めること=明らかにすることですから、誤魔化すこととちょうど逆ですね。
紹介してくださった著書を手に取ってみようとおもいます。
ありがとうございました。
美石さん、コメントありがとうございます!
さま付けなんてやめてくださいよ(笑)こんなコメント欄くらい気軽にご利用ください。
諦めること、言い換えれば諦念は、本質を理解したからこそ生まれるものでもありますよね。人間は他者にはもちろん、自分にも誤魔化して生きることができる生き物ですが、そのしっぺ返しは必ずきます。そしてその最大級のしっぺ返しが「うつ病」ではないかな、と思っている次第です。
要するに「もっと自分のことを知ってくれ、大切にしてくれ」という体からのメッセージ、それがうつ病であり、そのメッセージを真摯に受け止めた結果、諦めるべきことも出てくるんじゃないかなってのが当記事の要旨となります。
諦めは、相応の勇気が伴うものです。その勇気を、当著書が与えてくれると確信しているからこそ、記事内で紹介しています。そんなに気負いすぎず、肩の力を抜いて読んでみてください。
御返信どうもありがとうございました。
仰る通りだと思います。
当方、研究職の傍ら、セラピストとしても細々と活動していますが、
出逢ったクライアント様の全員が(!)自身の身体と心を粗末に扱っているのを目の当たりにして驚きました。
亜鈴さんの仰る「相当な勇気」は、静観すると、当方にはまだ備わっていないようです。
勉強してみます(早速一冊購入しました!)。
どうもありがとうございました^^
私は去年鬱になり、何とか大学卒業はできたのですがそのまま治療に入り、今現在はアルバイトをしながら就活をしています。
私も何回も「俺の人生こんなはずじゃなかった。親に申し訳ない。なぜ皆んなができてる事が自分はできないのか」と自分の不甲斐なさに悲しくなり生きてる意味が見出す事ができませんでした。
正直、鬱に「治る」というのは無いと私は思っております。
だって今の私は鬱と診断されてもうすぐ1年になりますが、確かにあの頃に比べればアルバイトもできるし就活する事もできています。
しかし、心のどこかで「またあの頃の様になるのではないか」とストッパーがかかってしまい昔ほど自分を追い込む事ができません。
そして、私はそんな自分をまだ受け入れるのが難しいです。
だからこそ私はその分、自分の事を何でも話せる様な人を作り、心の安定を図っています。
そして「諦める」ということに関してですが、多くの日本人は「諦める=負け」という風に理解してしまうと思います。
だから、諦める事を辞めずにそんな自分に苦しみどんどん深く落ちたいってしまうのではないでしょうか?
見方を変えれば
諦めることは新たな挑戦せの道筋みたいなものですが、こういった考え方を持つ方は日本には少ないと思います。
なんだか、言いたい事が分からなくなってきました笑
しゅんさん、コメントありがとうございます!
うつに対する考えについては私も同感で、治るという概念は存在しない派の人間です。
というよりも、そもそもうつ病(による症状)は病気などではなく、単なる身体からの反応であるため、そもそも治るという表現が適切ではない、とさえ最近は考えるようになりました。
それゆえ、「昔ほど自分を追い込む事ができません」という点については、「追い込むことができない今の自分で良いのだ」と考えることが大事だと思います。その「ストッパー」こそが自分の本心であり、そんな今の自分で生きることが最も重要なことではないでしょうか?そしてこれこそが、
・受け入れる
・諦める
ということなのでしょう。うつ病になると、色々なことを受け入れて、そして諦めることになります。これは例外なく誰しもがそうです。しかし、逆に言えば「うつ病になったことで歩める人生」があり、私たちはその道をのんびり歩いていけばいい。
そして気がついたら、うつ病になる前よりも幸せな人生を送ることができている。こう感じることができた時、初めて「うつ病が治った」と言えるのかもしれませんね。